世の中には、不幸と同じくらいの幸福もばらまかれているのです。
人は不幸の時は一を十にも思い、幸福の時は当たり前のように馴れて、十を一にも思いたがりません。 (ver.0) 瀬戸内寂聴[せとうち・じゃくちょう]
(小説家・天台宗の尼僧、1922〜) (ver.0)『寂庵説法』 (ver.1)『生きることば あなたへ』 【 瀬戸内寂聴の名言 】
(ver.1)
世の中には不幸と同じくらいの幸福もばらまかれているのです。 人は不幸のときは一を十にも思い、幸福のときは当たり前のようにそれに馴れて、十を一のように思います。 人はとてもぜいたくな生き物で、たとえどんなに「幸福」であっても、その「幸福」を過小評価してしまうものです。
「幸福」でいるうちに、それが当たり前のことであるかのように感じるようになります。 そして、自分はもっと「幸福」であってもいいと思ってしまうのです。 ■しかし、「幸福」には限りがあります。 どんなに望んでも、それ以上の「幸福」はそう簡単にはやってきません。 すると、さらなる「幸福」がやってこない事自体を「不幸」だと感じるようになってきます。 「幸福」でありながら、その「幸福」を十分に感じられない。 それどころか、「不幸」と勘違いしてしまう。 それが人を「幸福な気分」から遠ざけてる大きな要因なのです。 ■また一方で、人は「不幸」であるとき、その「不幸」を過大視してしまうものです。 最初から「不幸」な人は、余程「ひどく不幸な状態」でないかぎり、自分をそれほど「不幸」だとは感じないものです。 それが「普通の状態」だからです。 しかし、「幸福」から「不幸」に落ちた人は、「わずかな不幸」であっても、「とんでもない不幸」だと感じてしまうのです。 「幸福な時代」を基本に考えているから、蚊に刺された程度の不幸さえ、犬に噛まれたぐらいの不幸に感じてしまう。 「幸福な時代」を忘れられないから、いつまでも「不幸」に馴れることは決してない。 これが人を「不幸な気分」にしている最大の要因なのです。 ■「幸福」であるか、「不幸」であるか、実はそれらはすべて「気分の問題」「感じ方の問題」だといえます。 極端なことを言えば、「幸福」であっても「不幸」でありえるし、「不幸」であっても「幸福」でありえるのです。 たとえ天国でも「不幸」はありえるし、たとえ地獄でも「幸福」はありえるのです。 ■「幸福」と「不幸」が「感じ方の問題」に過ぎないなら、「幸福」になるには、その「感じ方」を変えればいいだけのことです。 「不幸のときに一を十に思い、幸福のときに十を一に思う」というのを、まずやめる。 そして、「不幸のときに十を一に思い、幸福のときに一を十に思う」ように心がけるのです。 すると「マイナスの気分」は減っていき、「プラスの気分」が増えてきます。 全体では、「幸福感」をかなり高めることができるでしょう。 そして、これこそが「幸福になる秘訣」なのです。
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